4 あるとき、さよはほのかさんの代理で、数時間だけ1人でお店をまかされた。 信頼されるのは嬉しかったが、自分1人でできるか。 「ほのかさん、早く帰ってこないかな」と思う自分が少し情けない。 そのうち、お客様がいらした。 さよは、足をふるわせながら料理を用意し、いつもほのかさんが 作っているときよりも時間がかかったが、なんとか注文の料理ができた。 「いつもの味と、少し違うね」と言われてしまったが、なんとかお代金を頂き、ほっとした。 あとでそのことをほのかさんに話すと、 「そういうことを経験して、だんだんよくなるよ。」と言われた。 「私がつくった料理で、お店のイメージが落ちないでしょうか。」 「私は、バイトの人で評判が落ちるような、そんな仕事の仕方をしていないから、大丈夫よ。」 歳月は流れ、さよは調理師の資格も取り、一日中一人でお店にいても当たり前のように平気になった。 お客様からも、さよの料理が食べたいというおなじみのお客様もいらっしゃる。 ある時、いつものように、さよが代理で料理をしているときだった。 「さよさん、やめちゃうの?」と、古くからの常連、飯塚さんがいらして、いつもの席に座ると言う。 さよは、少し驚いて顔を上げた。ほのかさんは、出前に行っていていない。 「いえ、まだ続けますが…」 「あれ、ほのかさんが、新しいバイトを募集していたから、やめるのかと思った。 あの人、バイトは1人しか雇わないから、さよさんはやめちゃうのか、残念だなと思って…」 飯塚さんは、そのときのさよの表情を見て、急に黙った。 (ひょっとして、さよさんは知らされていなかったのかな。まずいな)と思った。 ほのかさんは、さよに仕事をやめるようなことも、それをにおわすようなことも言わなかった。 でも、バイトは1人だけということは、さよは解雇なのだろう。 ほのかさんは、さよと仕事をするのが楽しいと言ってくれた。 でもほのかさんにとっては、黙ってやめさせる程度の存在だったのだろうか。 さよは、ほのかさんが「おつかれさまー」と言っているのに答えず、さっとお店を出た。 空はもうすぐ雨が降りそうだ。 さよは、ほのかさんに認めてもらえて、またほのかさんのような 上司に育ててもらって、とても嬉しかった。 わたしのようなものでも、いていいと、そう言ってくれているようだった。 辞めてほしいなら、そう言ってくれればいいじゃない。 紫陽花が咲いている庭がある。そこで少し、冷静になった。 (いや、ほのかさんが責任者として選択したことだ。私が駄目だから他を雇う、それは当然だ。 ほのかさんが悪いわけじゃない。) 今回のことも、きっとなにか理由があるんだ。 だって、ほのかさんは、裏のない人だ。私を嫉妬やストレスで怒ったことは、一度もない奇特な人だ。 いつか遊園地で言ったことは、実行されていた。 私も、たくさん失敗したが、そうできるときも増えてきた。 仕事は厳しかったが、それと同じくらい楽しかった。 それで充分だ。 さよは、むしろほのかさんに感謝し始めた。 もうすぐ家に着きそうな道を歩いていると、後ろから、おーい、と声がした。 飯塚さんだ。 (あれ…) 振り向くと、飯塚さんの仕事用の車が、さよの前を通り、数メートル先でとまる。 「追いついてよかった」飯塚さんは笑顔で車から降りてきた。 「ごめん、俺の勘違いだった」 さよは、何事かと思いながら飯塚さんを見た。 「ほのかさん、今度、新しく支店を出すんだって。君が、そこの店長候補なんだよ。だから、あのお店では 新しいバイトの人が必要だったんだ」 「支店を出すんですか、ほのかさん!」 さよは、自分の状況も忘れて、びっくりした、そんなこと、ひとことも聞いていない。 どうりで最近、さよが代理で料理をする機会が多いと思ったら、支店の準備をしていたのか。 「俺はインテリアの仕事をしているから、その支店の内装も任されていて、さよさんより先にその話聞いていたんだよ。 ごめん、俺の早とちりだった」 飯塚さんは、両手を合わせて頭を下げた。 「いえそんな、頭を上げてください。もしかして、そのためにここまで」 飯塚さんは、照れくさそうに「あ、そうだ、仕事の打ち合わせに遅れる」と言って、 車に乗り込んだ。 さよは、運転席に向かって、深くお辞儀をした。 飯塚さんは、さっと右手をさよにあげて見せると、そのまま行ってしまった。 さよは、飯塚さんの車を見送りながら、自力で頑張っている、ひとりで生きていると思っていた頃の自分を 思い出していた。あの時の私に出会えたら、飯塚さんみたいな人に出会えるよと、教えてあげたかった。 (ほのかさん、ありがとう…) 雨が降りはじめた。さよは、紫陽花を眺めながら、ほのかさんの歌を思い出した。 傷ついた人は、優しく、優しい人は、もっと優しく つづく